旦那・女将のとっておき話「菓子屋の独話」

現在三田にある慶応大学の目の前で商売を細々と続けております18代目和菓子屋主人の独話でございます。

店は秋色庵大坂家(しゅうしきあん おおさかや)と称し、江戸の頃より商いを続けて参りました。店名の通り大坂(現・大阪)より下ってきて、はじめは日本橋小網町にて営んでおりました。下ってきたのは1640年頃元禄以前のようですが”元禄”と言った方が時代背景が浮かびやすいのでそうさせて頂いております。

なにしろ古い文書等を明治26年の隣の痴話喧嘩が発端の火事で焼き尽くされてしまい、16代の姉いわく今日で言う文化財的な物品が長持(ながもち:近世に用いられた長方形の木製民具)に沢山あったそうです。鑑定団に見てもらってみたかったのですが、、、かえすがえすも残念です。

そんなこんながありまして小網町から親戚を頼って芝金杉橋にて約50年ほど営業し、昭和3年より現在の三田の地にて営んでおります。

大正時代、現在も看板商品として扱う「秋色最中」が考案されました。16代の頃です。はじめは三色最中として餡を三色にした最中を発売したところ同様の模倣品が次々と作られて参ったので、気の短い江戸っ子気質の16代が熟考の末、先祖の名を冠して「秋色最中」と改めましたものです。

“秋色(しゅうしき)”とは元禄年間に活躍した女流俳人”秋色女”の俳号で宝井其角の愛弟子でありました。若弱13才の頃

【井戸端の 桜あぶなし 酒の酔】

という句を上野清水観音堂のしだれ桜に結びましたところ寛永寺の公寛上人よりお誉め頂き、当時は一躍時の人、今でいうアイドルとして人気を博したそうです。彼女の姿は浮世絵やお芝居に、また講談”秋色桜”として今でも語り継いで下さっております。

さて、わたくしは18代目として昭和17年1月おりしも太平洋戦争開戦の翌月に芝三田で生を受けました。戦前のことは分かりませんが疎開より戻りました昭和22年頃は三田の町は辺り一面瓦礫の山。現在コンビニがあります当店の向かいは進駐軍の憲兵事務所になっておりました。慶応大学図書館の三角屋根は飛ばされておりましたが大学の下の方は焼けるような被害はなかったと記憶しています。うちの前には不発弾の破片がしばらく埋まっており当時の道路には馬車、牛車、大八車が行き交い、雨が降ると汁粉状、風が吹くと砂漠の様。馬や牛の排泄物を肥料として持ち去る方の姿が印象に残ります。

国道1号ということもあり割と早く整備がなされ、昭和天皇はよくお通りになりました。当時の三田通りには夜店が並んだりして賑わいがあり、渋谷ー田町間のバスが開通しました。バスは後ろに薪を積んだ木炭自動車で馬力が弱く坂を登るのに乗客が押していた光景も未だに覚えています。現在、大規模開発計画が実行されている札の辻の開発などなど、これから先のこの町の変化も楽しみたいと思っています。

秋色庵大坂家
18代倉本勝敏